馬場理事長ってこんな人?!
中学卒業時に当時の南海ホークスのテストを受け、最終選考まで残りました。高校時代には巨人のプロテスト一次選考を突破しましたが、二次選考の日が中間試験と重なって断念。大学卒業後は阪神入団がほぼ決まっていましたが、母校仁川学院硬式野球部の監督になることを選択しました。
(高校時代の同級生Kさん 談)
高校時代は仁川学院野球部を一人で率いた伝説のピッチャー。すごい人気者でした。
当時マリアの園幼稚園には立派なヒマラヤ杉がありました。その下に大きなすべり台があり、冬になると針のような葉がすべり台にたくさん落ちて困っていました。子どもたちがケガをするから、切ってしまおうという意見が出ましたが、「生きてる木を切るなんてとんでもない」と猛反対。毎朝落ち葉を掃き集めて、ヒマラヤ杉が伐採されるのを食い止めました。
(中学時代の同級生W氏 談)
仏教徒だけど、神父さんみたい。「この人のいうことなら、この人のためなら」と思わせる、人望のある男。50年見てきてそう思う。
事務長時代にはさまざまな困難に遭遇しました。ときには保護者のみなさんから猛反発を受けるようなこともありましたし、先生方につらいお願いをしなければならなかったこともありました。それでも、困ったときはいつも周りの人たちに助けられ、なんとか乗り越えることができたそうです。
(事務長時代を知るM氏 談)
どんなに厳しいことを言われても馬場さんのために人が動くのは、私利私欲ではなく、人のため、学校のために一生懸命になられていることがわかるから 僕もそうでした。
最初は部員がたった3人。1年2年とがんばって、3年目でやっと県大会で1勝することができました。すると「13年連続1回戦敗退のチームがついに1勝した!」と新聞・テレビが飛んできてニュースに。うれし泣きしている馬場監督の顔が大映しになりました。「弱いチームがいかにして強いチームに勝つかを必死で考えた」と語るように、ルールすれすれの頭脳プレーなども駆使しながら、仁川学院は年々強くなっていき、最後は決勝まで進出しました。でも、決勝ではボロボロに負けて、甲子園の夢が実現することはありませんでした。
怒鳴るぐらいはあたり前、とても厳しい指導をされていたそうです。今の姿からは想像もつきませんが、鬼監督として生徒たちから恐れられていたそうです。ただし、それは教え子を思うゆえの厳しさだったのでしょう。卒業して社会に出たOBたちからは「あのときのしんどさを思ったら、どんなことも乗り越えられた」「あのときに怒られた意味が、今わかる」という感謝の言葉が聞こえてきます。
この番外編は、馬場さんを知る人たちを取材して聞いたさまざまなエピソードを、どうしても紹介したくて、こんな人がはじめたNPOだということをみなさまに知っていただきたくて作ったページです。どうぞ応援よろしくお願いします。